BS1スペシャル 「改善か 信仰か~激動チベット3年の記録~」(後編)

半年前に訪れたチベットの変化。共産党のスローガンが大地のいたるところに見られた。ラルンガルンゴンパの正門には検問所が作られていた。

チベットの様子(2017年)

ラルンガルンゴンパの門の入り口には警察が常駐し人を監視していた。再び本格的な修行僧の家の取り壊しが行われていた。取り壊しを行っていたのは、チベット族の人。当局によって集められ労働者の日当5000円。行き場を失う僧侶たち。抗議の自殺を下との噂が流れた。

諸行無常から状況を理解するしか無い。5000人近い僧侶が寺を追われる。追放された修行僧が撮影したとされる映像では皆泣いていた。ツェテンが暮らす場所は無事なのか。家は無事だったが、他の修行僧がいた。大通りが建設され、コーヒーショップを設け、将来的には外国人の観光者も誘致するという。僧院の観光地化。中国の内地から漢族の観光者が増え始めていた。チベット仏教には関心はないが、景観は美しいという。

牧草地にはプレハブ住宅が作られていた。行き場のない尼僧たちが暮らす。有刺鉄線が張り巡らされていた。修行僧の間には苛立ちが広がっていた。チベット僧が漢族に殴りつけた。灌頂会の会場、ここで法要を行われることはなくなった。

プンツォ・タシは僧院に残っていた。取り壊しは4000個と言われていたがわからない。余計なことを話すと僧院に大きな悪影響をもたらす。自宅の目の前にまで及んだ。平等と慈悲、チベット仏教の教えをインターネットで配信し続けていた。高僧の講義を配信していた。仏具を扱う売店。父から頼まれた仏具を探していた。約束から1年後、父ティンレーが亡くなり、3ヶ月後母アゲも亡くなった。「両親は生前修行を行っていたが、なくなる時、とても穏やかだった。」父は土葬に、母はハゲタカに葬った。輪廻転生を信仰していた父と母だった。チベット仏教の教えの発信を継続して行う。チベットの文化を発展させたいという希望を持っている。僧侶の役割は大きく役割は大きいと。

中国共産党の施策が拡大

移住政策

2018年1月1年、中国共産党、貧困撲滅宣言。年間6兆円もの金が地方に注がれていた。辺境の大開発が始まっていた。ときには、4000mのトンネルを作られ、一週間かかった峠越えが15分に短縮された。共産党「より開放的な考え方をもたせ、古い習慣などは廃止させ、より良い方向に変える。」遊牧民の集約移住が始まっていた。脱貧困村。同じ形のちベット風の住居が政府の金で作られた。遊牧民520人あまりが移住された。ここに祈りの施設はないという。高原の遊牧民は生産性が低く、ここに移住した貧困者は産業の発展と現金収入を得るチャンスに恵まれる。金儲けの熱意を奮い立たせることが出来る。大人も皆夜間学校の教育が義務付けられた。中国社会に適応するために教育を受ける。村民は幼い頃から勉強不足で文化や知識が不足している。国家の政策を学び意識を変える。脱貧困村の義務として中郷共産党の党首習近平の肖像画が掲げられていた。山から降り、月収5000円程度の仕事を政府から与えられた。水道や電気もあり便利だという。長年、仏教を信仰をしてきた老人、党首から恩を受けて深く感謝しているという。

小学校、教育

チベットの子どもたちにも進む共産党の改善。伝統的なチベットの暮らしから離し、寮に入れさせ、愛国心を教える。生徒には生活手当3000円程度が支給される。遊牧民の子どもたち、国家の支援策は充実し、良い暮らしをする。地域の先駆者になることを期待されているという。

親元では話さない中国語を話し競い合う。国への愛国心を育てるため愛国主義を教える。有利な条件で人生を歩めるため教育を行う。県や州などで活躍をする。家族を恋しく思うのは最初だけ。

チベットの様子(2018年)- ラルンガルンゴンパ

ラルンガルンゴンパ、コンクリート造りの展望台、一望できる階段。修行僧の不安と警戒心。撮影がままならない。かつてのお経が聞こえた聖地。トラックの音が鳴り響く。「諸行無常」ただ祈り続けた。

修行僧のツェテンはどこに消えたのか。僧院の取り壊しから2年余り彼の実家を訪ねてみた。僧院を追われたツェテンは行き場もなく家に帰ってきた。僧院を出るときは本当に悲しかった。高僧や家族同様の友人と別れ辛かった。仏教の勉強は独学でしている。病気を患っていたウガも実家にいた。体調は一進一退。他者を傷つけないという慈悲の戒律を守り続けていた。最高指導者が掛けられ、布に掛けられていた。妹のユシィは小学校6年生になっていた。民族衣装に身を包んでいたが、今は洋服を来ていた。勉強ばかりで放牧にはいかなくなった。中国語の学習は進学に繋がると学校で教えられていた。冬休みには別の町に出ていき中国語を学びに行く。小学校を卒業した後は50km離れた中学校の寄宿舎に入る。家族との遊牧民としての暮らしは残り僅かだった。

<着想 2019-12-01>
社会がいいというものが本当に幸福なのか。大衆にとっての幸福が自分にとっての幸福なのか。なぜそれを行うのか。なぜそれを選択するのか。

チベットの様子(2018年)- 徳格印経院

300年にわたり、チベット族が礼拝に訪れる信仰の聖地。チベット族の精神世界と文化の源がここにある。1000年前インドから伝来したお経をチベット語に訳した木簡(もっかん)が保管されている。チベット文化の書籍と経典がすべてここにある。今も印刷に使われている。貧困撲滅を目標とする当局は、この遺産に目をつけた。観光地化に向け、「文化立県」のスローガンを掲げた。世界文化遺産に登録される価値がある。印経院ですられた仏の教えが印刷され売られていた。高額で売れる。本来は修行僧が使うもの。この地の観光地化に向け公共のバスが整備された。豊かになりたいなら未知を作れ、貧困脱出のために観光地化を行う。建設ラッシュが起きている。3000客室確保を目指すホテル。15年前の街、周りに高い建物は一切なく古くからの時間が流れていた。景観工事で8億円を投じ、観光化を進める。チベット族女性テレビ局員。数少ないチベット族の共産党員。遊牧民の街で生まれた。貧困を抜け出すため、中国内地に移り住み漢族と同じ教育を受けた、そして専門学校を卒業し、待望の共産党員になることを認められた。等が決めた法律などを広める。彼女はテレビ局の副局長として指導する。当院になるために信仰から背を向けた。共産党員の宗教への信仰は認められていない。生きていく限り自分の価値を高めたい。生きがいを追求したい。

チベットの様子(2018年12月)- ラルンガルンゴンパ

プンツォ・タシはラルンガルンゴンパから姿を消していた。600km離れた西寧という大都会に流れ着いていた。待ち合わせに指定されていたのはホテルの一室。僧院を出るように通告された。何があったかについては多くを語らなかった。「将来戻れる時が来るのかわからない。うまく説明できない。仏教は、人の心の力は宇宙で最も能力があると説きます。人が心で真剣に望み、祈り続ければ、世のすべてのものを変えられる。自身の信念に確信をもち、努力すれば必ず道は見つかる。」

ツェテンは一人で瞑想する。「多くの人は、現世が非常に大切と考えています。それでは執着、欲望、煩悩に苦しむ。来世が重要と説く。この世で私は大した役が立ちません。しかし、しっかり修行すれば、来世の役に立つはず。」

チベットの様子(2019年01月)- ラルンガルンゴンパ

観光地化の工事は更に進んでいた。観光客向けの階段が完成していた。大型の宿泊施設と思われる建物が姿を現した。また商業施設だと思われる建物も姿を現した。漢族の観光客が、1000年続けられてきた信仰の世界がこの3年で観光資源と化していた。国家の意思は民族の精神世界をも変えてしまうものなのか。僧院は文明の明かりに包まれた。

BS1スペシャル 「改善か 信仰か~激動チベット3年の記録~」(前編)

天険の要害。1000年もの間、外部からの侵入を阻み、独自の信仰と文化が生まれた。中国人は貧しい辺境と呼んできた場所。中国共産党はこの聖地を改善する決定を下した。民衆の精神世界を変える。中国共産党という国家によって民族の1000年の歴史が変えられていく。

チベットの様子(2016年)

チベットの渇いた聖地、ラルンガル。仏塔と紅色の門。世俗の世界と信仰の世界を隔てる門。10000万人もの人が仏教を学ぶ仏教僧院。灌頂会(かんじょうえ)春、チベット全土から数万の巡礼者が集まる。祈りの声が聞こえた。僧侶を目指すものは出家する。女も男も結婚はせず生涯を修行に捧げる。チベット高僧「他人を害することなく自分を律しろ」

修行僧:ツェテン・トゥンドゥプ、10年間質素な修行の生活を送る。修行僧は信者からのお布施で暮らす。主食は野菜とコメだけで肉は一切食べない。殺生は一切しないことを守る。夜明け前、読経を始める真言を7000回唱え瞑想をする。この世のすべての生命に対し平等の慈悲の心を持つよう修行している。「菩提心」という。1980年にラルンガル・ゴンパ(仏教僧院)が開かれた。14歳の時に決心し、家を出て、ラルンガルンゴンパに来た。仏塔の間を歩き、聖地を目指した。

問答の修行:身体が衰弱し、修行ができなくなった弟ウガがいた。結核に侵され白い。肺の切除が必要であると医師から告げられていた。肉など栄養価の高い食事を摂る必要が会った。しかし、口にするのは野菜だけ。他者を害してはならない。自らにかしていた。肉を食べても毛皮を着てもそれは他の命を殺すこと。小さな虫の命も人間の命も平等なのだ。体力の回復と誓い(殺生しないこと)どちらが大切か。

チベットの歴史

1300年ほど前8世紀とされている。魂は仏の慈悲で救われる。仏が宿る大地で礼拝をする。1951年:文明化を掲げる人民解放軍はチベットラサにも進行。武力で鎮圧された・ダライ・ラマ14世はインドに亡命した。1966年:文化大革命:宗教を否定し、寺院は破壊された。1980年代:改革開放政策が始まり、寺院などは再建された。しかし、高度な自治を求めるチベット自治区と分離独立を警戒する中国政府の溝は埋まることはなかった。2008年:ラサ暴動:共産党への統治への暴動が始まる。共産党は武力でラサを完全に制圧。暴動は破壊活動だと避難した。数千の僧侶がラサを追われた。150人以上の僧侶が自らの身体に火を放った。

中国共産党の施策(間接的)

言語

修行僧:プンツォ・タシ、仏の教えを学んでいる。煩悩の妨げを取り払った人と煩悩により信仰を邪魔する人は同じか。仏教の信仰が100%ある。仏教には驚くべきほどの教えがある。環境や現代社会の問題の解決に大きや意味を持つ。平等な世界を作るために貢献したい。それに貢献した人のポスターを壁に貼っている。

街のチベット族との会合に招かれた。中国で生きるチベット族540万人、民族の行末をあんじていた。我々の文化継承が必要。文化の危機に直面している。チベット族の不安の理由にはある現実があった。中国公民として意識を高めるために、家庭では使われない中国語での教育が行われている。中国語を話せれば就職に有利だと考える若者たちも増えている。一方で、チベット独自の言葉を守ろうとする会も行われている。プンツォが学生の前に立って教える。中国でチベット語を読み書きできるチベット族は3割程度だと言われている。チベット語を正確に発音できなかったり文法の基礎レベルが低い。

ツェテン:一年ぶりに実家に戻った。標高4200mにぽつんと建つ一軒の家。チベット仏教の高僧写真が数多く掲げられていた。母親は出家して嬉しいという。ヤクを育てる遊牧民の家庭。家畜の殺生もせず、ヤクのミルクとバター、野菜を食べる質素な暮らしを続ける。肉を食べるのは罪。妹ユシィ:学校での成績がよく自転車を買ってもらった。ツェテンからお守りのカードを貰った。学校の教材は中国語で書かれていた。チベットの辺境地でも中国共産党が静かに進行を始めていた。

スローガン

修行僧の間にある言葉が広がっていた。「嵐を去るのを待て」と。プンツォは僧院の指示に従い、室内にこもって修行を続けていた。一人仏の経典と向き合っていた。人間社会には多くの誤りがある。認識が間違っているからだ。物の力で世界がより良くなるように祈っている。一ヶ月後、室内での修行の指示がようやく解かれた。

中国共産党の施策(直接的)

修行僧の家の破壊

2016年8月、僧院の観光地化が決められた。僧院の高僧が修行僧に向け訴えた。「私達は何もできない。権限は向こう側にあります。誰もが住まいを壊されたら怒り悲しみます。感情があれば誰でもわかる。以前のように平静を保って下さい。」チベット近くの共産党本部「心の中に民あり、心の中に等あり。人民のために奉仕する。」改善の動きは更に加速する。

チベットの来世への祈り

プンツォの実家帰り、年老いた両親が待っていた。山の谷間でヤクを追い仏教を信仰してきた。9人の兄弟の一人で15歳の時に出家した。72歳になった。両親は孫に囲まれ生きる。息子に出家を勧めたのは父親だった。「ラルンガルで法要した仏具を持ってきてくれ」と息子に頼んだ。チベット人は良き来世を願う。ラルンガルンゴンパはこの世と来世を繋ぐ場所。現世を生きた魂。仏に向けて儀式が行われる。

肉体から抜けた魂は暗い世界を恐れる。だから、教えを聞かせ再生への安らぎを与えるのだと。極楽浄土でよりより生まれ変われを祈願する「ポワの儀式」

良き来世に最も近いとされる鳥葬場(じょうそうじょう)、亡骸は小さく袋詰され、仏塔を回る。骨の一部が形見として遺族に渡される。チベットで受け継がれてきた儀式が始まった。ハゲタカに死んだ人の肉体を捧げる。「人が最も執着する、肉体を他者(ハゲタカ)に捧げます。ハゲタカは満腹になれば、他の命を傷つけません。死者は最後のお布施を行い、大きな功徳を積みます。」「すべては無で悪もない。苦も楽もない。世俗も解脱もない。私の身体を供物として鳥に捧げます。」現世で他者のために生き、来世で他者に生まれ変わる。再生の信仰。

<2019-12-01>
同じ2019年なのに、場所が変わればこんなに違う世界があるのか。

歴史 - 会計

紀元前

お金の誕生

紀元前3100年頃 簿記の誕生(文明誕生の時代)

→攻撃品や彫刻とともに粘土製のトークが太陽に出土した。円錐形や円柱形など形状は様々。しかし、1970年代にフランスの考古学者が、これらのトークンが「数の勘定」に使われていたことを突き止めた。各トークンは穀物や家畜を表しており、それを数えることで財産を記録していたとのこと。

トークンを棚から棚へ移動させれば入出庫管理ができます。棚にあるトークを数えれば在庫計算ができる。これも一種の簿記。そして、型や記号を書き込むことで管理が簡略化され、文字の誕生に至ったとされている。(人類が記録を残すようになったのは、歴史や詩、哲学を記すためではありません。経済的な取引を残すために、私たちは記録のシステムと文字を発明した。)

https://media.moneyforward.com/articles/322

14世紀(1300 - 1399)

15世紀(1400 - 1499)

1492 コロンブスがアメリカ大陸を発見、大航海時代の幕開け

コロンブスがアメリカ大陸を発見。大航海時代の幕開けとなった。

1494 ルカ・パチオリがスムマを出版

複式簿記をはじめて体系的に紹介した。現在我々が用いている複式簿記と差異がない。

1498 バスコ・ダ・ガマがインド航路発見

15世紀 利益の計算

毛織産業を始めとして比較的大規模に行われるようになっていた。

16世紀(1500 - 1599)

1519 マゼランの世界一周

1543 継続企業、期間計算、未販売商品の概念

これまで、口別計算(プロジェクト単位で利益を計算)していたが、継続企業における総合計算(すべての事業プロジェクトにおける利益の合算)を期間計算を用いて行われるようになった。

1581 オランダの独立宣言

ポルトガルの支配下にあった東インド貿易だったが、16世紀の末からインド洋に進出したオランダが、軍事力を持ってポルトガルの既知を征した。

17世紀(1600 - 1699)

1600 オランダのリーフデ号が豊後に漂流

1602 アラビア数字がヨーロッパで利用

ローマ数字:ⅠⅡ → アラビア数字:1, 2

ラテン語 → 口語

アラビア数字の普及によって科学が進み、それがわかりやすい口語の書籍になって人々の間で広がる。また、この時期、数字と言葉に加えて、時計も登場し、空間と時間の様々な計算ができるようになった。科学は新たな領域に進み、海図、大砲、絵画の遠近法、音楽の五線譜など様々な発展をもたらす所謂「数量革命」が起きた。「簿記」もその数量革命の一つだったといえる。「簿記」は「儲け」という掴みどころのないものを可視化する技術である。それはメロディーという記録できる五線譜によって音楽が発展したことと同じこと。

1602 東インド会社(VOC)設立

→世界で最初の株式会社、東インド会社(East India Company)の誕生

オランダで誕生した。当時、インドや東南アジアから特産品を欧州へ運んでいたが、一回の航海に多額の費用がかかっていた。そのため、航海ごとに出資を募り、その航海が成功すれば利益を配分するという形をとっていた。株式会社設立前、航海成功時には大きな利益を還元し、航海失敗時には出資したお金すら一銭も戻ってこないという可能性があり、一回の航海単位での投資は投資家にとって非常にリスクがあった。そこで、貿易会社という企業を作り、そこに出資者を募ることで一回ではなく数回の航海で得た利益を出資者に還元することで、投資家のリスクを減らすようなシステムが考えられた。(完全な企業の継続性、利益の期間計算をたずさえて発足した)

東インド会社設立に伴い、その株式を取引する場所としてアムステルダム証券取引所がオランダに設立された。これが世界で最初の証券取引所となる。しかし、当時の株式会社の実体はトップが国王に据えた国営企業だった。

https://equity-investment.info/essence/origin/

1652 英蘭戦争

1652 喜望峰の発見、インド航路の発見

造船技術や海図、コンパスの革新、そして船乗りの勇気がもたらした大航海時代。ヴェネツィアを経由せずとも直接インドを訪れて取引することができるようになった。これまでの海の主役イタリアだったが、新航路を発見したポルトガルとスペインの船が海の主役に変わった。もう一カ国、オランダ。当時、カトリック色の強いスペインの支配下にあった。宗教革命によってプロテスタントが増えていた事に対して、スペイン王国フェリペⅡ世は新教徒たちを弾圧、これに対抗して「独立戦争」→「ネーデルランド連邦共和国」の独立を宣言。自由を手にしたプロテスタントの国オランダにヨーロッパから宗教を超えて、「商人」が押し寄せた。

1666 ロンドン大火

16世紀あたりから樹木伐採の制限令を出すなど木材不足が深刻化

木材不足(大火で焼失した街の再建)→ 石材が用いられる

木材不足(新燃料「石炭」の発見) → 石炭が用いられる

18世紀(1700 - 1799)

1709 アイロンブリッジでのコークスによる製鉄

産業革命の重要なステップ、アイロンブリッジでの製鉄は世界最大となり、他の多くの産業を惹きつけた。

1720 南海バブル

南海バブル崩壊。南海会社が1711年に、スペインの植民地と貿易するため共同株式会社として創設。株価の相場は、財務破綻の噂によって大変動した。投資家たちは、共同株式会社の持分を失い破滅させられ、恐慌となった。

1762 ベアリングス銀行創設

イギリスで最も古い商業銀行創設。

1769 蒸気機関で特許取得

ジェームズ・ワットが蒸気機関の特許取得。工業化で、繊維工業、製鉄業、その他産業が利用し始めた。

1770 近代原価計算の創始

1754年に英国の製陶業者であるジョサイア・ウェッジウッドが製糖工場を創設し、1772年の恐慌で倒産を回避するために、製造原価の工場、間接費、および市場の構造を研究し、原価計算のパイオニアになりった。

1773 ロンドン証券取引所開設

運河、鉄道、その他施設が巨額の資金を必要とした。

1776 アダム・スミスが「国富論」の初版本を著す。

「見えざる手」(invisible hand)が有名だが、租税原則も記している。(租税:国家や府県・市町村などが、その経費にあてるために、強制的に人民から徴収する収入。)

1789 アメリカ連邦政府樹立

革命に勝利し、憲法が批准され、ジョージ・ワシントンが初代アメリカ大統領になる。

1792 アメリカ証券取引所開設

1799 東インド会社(VOC)活動終了

転落のきっかけ

英蘭戦争:アジアから似を積んできた船舶がイギリス海軍に片っ端から捕まって届かなくなった。

主な要因

  • ずさんな会計計算・報告:未熟だった会計制度

    →財務会計制度の改善と管理会計機能の充実

  • 高すぎた株主への配当:内部留保の不足と借入体質

    →コーポレート・ファイナンス理論の構築

  • 不正や盗難に対するチェック機能の甘さ:ガバナンス機能の不足

    →コーポレート・ガバナンスの整備

その後の会計制度・理論の発展に深く関わったということができる

またセグメント会計の発展につながる。商品ごとにトータルに損益を計算するセグメント会計の仕組みが存在しなかった。(CPAで言う原価計算などの分野?)

19世紀(1800 - 1899)

1825 最初の商業ベースの鉄道会社開業(イングランド:Stockton & Darlington Railroad)

1827 米国初の商業ベースの鉄道会社開業(米国:The Baltimore & Ohio railroad )

1830 世界初の鉄道会社(蒸気機関車の始まりと固定資産)

蒸気機関車の致命的な問題 → 初期投資があまりにもデカイこと(石炭の採取する際に湧き出る地下水を効率的に汲み出す動力として蒸気機関が誕生)

鉄道を開業するにはどれだけ固定資産が必要化について予算を含む事業計画が必要だった。リバプール・マンチェスター鉄道開業後、投資家の熱が増すとともに鉄道会社は株主の期待に答えなければならなかった。それは儲けを毎年増やし、株主に配当を出すこと。しかし、儲けを出し続けることはそれほど簡単ではなかった。このときに、鉄道会社自身が新しい概念「減価償却」という概念を作った。蒸気機関車を作るのにかかる巨額の支出は全額「支出した期」にに負担させるのではなく、それから数年かけて費用として負担、平準化させた。減価償却らしい手続きはそれまでも行われていたが、理論付けした上でこれを正式に採用したのは鉄道会社が始めてだった。減価償却はイタリアでの簿記の誕生に匹敵するかもしれない。会計上の儲けは収支から離れ、利益という形で計算されるようになったのだ。

1831 公認会計士が認められる

英国破産法の成立で、会計士が「公式の受託人」になることを政府が公式に認めた。

1837 駅と駅を結ぶ電信技術 電信

クックとホイートストーンが開発:電信を利用することで 安全かつ効率的に列車を運行することができるようになった

1837 駅と駅を結ぶ電信技術 モールス信号

モールスによるモールス信号が実用化され、通信できる情報量が増加した

1844 英国会社法成立、貸借対照表と勘定の監査

英国会社法が、正式な登録による業務創設を確立し、すべての上場会社の貸借対照表と勘定の監査をするため年度監査人を専任することを要求した。

1849 カリフォルニア ゴールドラッシュ

派生的に生じたのが雑貨屋リーバイ・ストラウス」、丈夫な作業用ズボンを売りつけ、大成功することになる。リーバイスのルーツ(鉄道会社以外の初期の企業)

1849 ジャガイモ飢饉

アイルランドでジャガイモが黒く腐る病気が流行して起こった飢饉。

長い間イギリスのプロテスタントと対立したアイルランドのカトリック教徒は厳しく弾圧された末に土地を奪われ、荒れ果てた西の地へ追いやられた。彼らにとって頼みの綱は、痩せた土地でも育つジャガイモだけ。そのジャガイモが取れないとなっては新大陸アメリカを目指すしか選択肢がなかった。(現在もイギリス本土はプロテスタントが多数、アイルランドはカトリックが多数)

人類の文明はヨーロッパを中心に発展して今に至るものが多くあるのだ。それを知ること、それはとても喜びなのではないだろうか。そして、その時代に生まれた芸術がそのときの時代を描写し強く物語っているように感じることができる。絵画や芸術の面白さの一つがそこにあるのかもしれない。

1851 ロンドン万国博覧会

アメリカ製の銃が人々の注目を集めた。製造の秘密を知りたがったイギリス人は、アメリカに視察団を送り込んだ。当時、標準化された製品の大量生産が行われており、産業革命の本家のイギリスの専門家たちにも大きな衝撃を与えた。

こうした環境のもとでフレデリック・テイラーの「科学的管理法」はアメリカで生まれた。土地が安いが、人件費の高いアメリカでは、経営者の関心が「人件費」と「労働者の管理」に向かっていった。

1854 デロイト(Deloitte)会計事務所創設

19世紀半ば、株式会社設立の自由化

→要件さえ揃えれば、誰でも自由に会社を設立できるようになった。

1867年:フランス:法で初めて登録制による会社設立が可能

1844年:イギリス:許可制から登録制に移行

1870年:ドイツ :株式会社の自由な設立が容認

会計士:それまで潰れる会社の破産処理を行う会計の専門家。破産処理と違い、監査が行われるようになった。会社が潰れないように手伝う前向きな仕事。

リパプール・マンチェスター鉄道が開通して依頼、その成功を見た実業家たちはイギリスに次々と鉄道を引き始めた。これによって、物資や人の運搬が用意になり、産業革命によって増えてきた製造業がますます盛り上がった。

1861 アメリカ南北戦争

北軍は開戦後直ちに別々の会社の路線をつなげて移動可能な状態を作り、兵士や物資の輸送を行った。これによって戦場が広範囲に拡大した。また、アメリカの工場で大量に生産された高精度の銃が登場した。

1862 米国で最初の連邦所得税成立

1869 大陸横断鉄道開通

連結決算の始まり

鉄道会社そのものがつながるようにになると、決算書もつなぐことが考えられるようになる。

1872 福沢諭吉が「帳合之法」を出版

日本で最初に出版された西洋の簿記書。

1873 日本初の株式会社

→日本で最初の株式会社は、渋沢栄一率いる第一国立銀行(現みずほ銀行)

世界では、オランダに続き、ニューヨーク証券取引所やロンドン証券取引所が設立されており、半世紀以上の遅れをとっていた。経済発展を見据える日本国において資産家をまとめて国策銀行を作ったのが最初だった。その後、第一国立銀行の株式を発行するために発足されたのが、東京株式取引所(1943年廃止)だった。その後、一般企業で一番最初に株式会社となったのは1893年の日本郵船だった。前身会社は岩崎弥太郎率いる日本国郵便蒸気船会社と三菱商会。三菱商会の前身会社は坂本龍馬が作った亀山社中だった。亀山社中は、薩摩藩や長崎承認などから出資を募り、貿易を通じて生み出した利益を出資者に還元していた。そのため、亀山社中が日本初の株式会社と言われることもある。

今の世界というのは、先人が切り開いた世界なのだ、色々な軸の歴史を持っている

宇宙や生物学というマクロな軸、私の数世代前という数世紀での軸

私に関与しないものと書こうとしたが、この世のものはどこで交差しているわからない

先祖がこの世の大地となり空気となり存在している。歴史を知ることで、自分が存在している今という時をより立体的に味わうことができる。すべてのものに歴史がある、それは今仕事で直接関わっているデータセンターにもあるのだ。

https://equity-investment.info/essence/origin/

https://kids.gakken.co.jp/rekishi/first/vol007/02.html

1880 英国勅許会計士協会 創設

創設時1880年に948人の勅許会計士が記録されている。

1886 米国ではニューヨーク州が公認会計士法制定により、CPAの資格を付与開始

1889 コカ・コーラとフランチャイズ契約

原液を売って、ボトリングの権利を売るフランチャイズ契約を始めた。正しい減量を使って、正しい手順でボトリングを行い、正しく保存・輸送する。すべてに「標準」を定め、それを工場に徹底させることで同じ味のコーラが作れるようになった。

19世紀後半 アメリカへの投資ブーム

→会計士の合併で大型化

次なる儲け先として新大陸アメリカ、会計士たちにも新たな仕事が飛び込んできた。投資先となるアメリカ企業の財務調査。アメリカのちで現地の会計士と一緒に事務所を作ったり、あるいはアギリス人同士で合併したりと大型化が起こった。クーパース・アンド・ライブランド、プライス・ウォーターハウスといった巨大会計事務所ができた。(他にもデロイト、トウシュ)小さな島国イギリスに対して、デカいアメリカ。19世紀の人、モノ、カネは、小さい方から大きい方へと流れた。

今のように一般に株式投資が浸透したのは、19世紀初頭のアメリカだった。西部開拓時代で、鉱山の開拓や石油の採掘、鉄道の建設など大きな資金力が必要な事業がいくつもあった。一方で、投資家となるアメリカ人も徐々に豊かになり、一定以上の富裕層が生まれた。そのため、需給が一致したことで、アメリカでは投資ブームが生じた。ヨーロッパ諸国では戦争などの情勢が不安定な時期もあり、資金をアメリカに回したいという思惑も重なり、輪をかけるように株式市場が大きくなった。

公認会計士の誕生

車両であれ、レールであれ、どんなものでもいつかはこわれて使えなくなる。固定資産は耐用年数を設定して、購入に要した金額をその期間で割らなければ、正しい利益を計算することができない。しかし、19世紀にはまだこの考え方は今ほど一般的になっておらず、例えば、車両を購入したときに全額を費用に計上してしまう会社も珍しくなかった。さらに、意図的に不正確な会計報告を行うことも横行していた。(粉飾)投資家の側でも、鉄道会社の経営や収益構造に詳しい人は稀だった。業績を好調に見せかけていれば、株式市場を通していくらでもカネを集めることができたのだ。鉄道株の投機で財を成した実業家ダニエルドリューはこんな言葉を残している。「内部の事情に通じていない人が鉄道株を買うのは、ろうそくの光を頼りに牛を買うようなものだ。」このような状況に投資家も黙ってはおらず、専門的な知識を持つ会計士によって監査を受けるように鉄道会社に要求するようになった。こうして1840年代には、現代まで続く会計事務所が次々と開業した。

1845:デロイト・トウシュ・トーマツ

1849:アーンスト・アンド・ヤング

プライス・ウォーターハウス・パーク

1870:KPMG

1854年、スコットランドで勅許会計士の審査基準が正式に定められた。公的な許可を受けた会計士(公認会計士)が誕生した。イングランドもこの基準に追従した。ニューヨークでは1849年に会計監査基準の検討が始まっていたが、公認会計士協会が設立されたは1887年だった。

1876:イタリア

1895:オランダ

19世紀末まで:フランス、ドイツ、スウェーデン、ベルギー

19世紀後半 会計ルールのグローバル化

→連結決算書が基本になる。決算書といえば連結決算書。連結の始まりもまた「鉄道業界」

イギリスからアメリカに伝わった鉄道建設は19世紀のはじめから一気に増加していった。中には甘い決算見積もりからスタートする鉄道もあり、やがて鉄道には淘汰の時代がやってくる。ここで経営の危なくなった鉄道企業を狙い撃ちするように安値で買収していったのがイギリス資本をバックに付けたJPモルガンなどの銀行資本だった。これによって、鉄道会社は単独の経営ではなく、銀行が支援する持株会社参加で経営を行うようになった。この連結決算が後にGEやUSスティールにも伝わり、20世紀になると多くの会社連結で決算する時代がやってきた。

19世紀後半、鉄道会社のおかげで証券取引所が発達した。公開株の半分以上が鉄道株であり、証券取引所は鉄道会社のために存在しているようなものだった。

19世紀後半 経営分析ブーム

「安全性分析(流動性分析)」に関心が集まっていた。決算書の比率分析は20世紀になりますます流行し、様々な財務比率が登場した。ただ、ひりつぶんせきから 経営状態を見抜くことは難しかったよう。なぜなら、もともと決算書が正しく作成されていなかったケースが多くあったから。アイリッシュ移民3世のジョーはハーバードで経営分析、信用評価などを学び、インサイダー取引などで大儲けした。

19世紀後半 電磁波を用いた無線通信

航海中の船舶とも通信が可能になり、航海の安全性が高まった。

19世紀後半 原価計算

外部との取引を記録することから一歩進んで、原価計算という内部の「製品原価」計算をするようになった会計の仕組み。外部記録から内部計算へ。ここから企業会計の外部報告の財務会計と内部利用の管理会計の二本立てになる。

19世紀後半 モルガニゼーションと鉄道会社以外での連結

ずさんな計画や経営によって経営難に陥った鉄道会社を次々と買収した。所有権を握りつつ経営再建させるその手法はモルガにぜーションと呼ばれるようになった。この時期に「持株会社」形態の巨大な会社がいくつも誕生した。(アメリカン、ゼネラル、ユナイテッド、ナショナルこうした社名のついた会社の殆どは業界を支配するために買収に次ぐ買収で規模の拡大を目指した。)グループ各社の株を保有するだけ。連結決算を行っていた鉄道会社にならい、製造業の持株会社も連結決算を始めた。(19世紀の企業経営は「規模」を目指し、続く20世紀前半には「効率」を目指す)

20世紀(1900 - 1999)

1903 監査済み財務報告書が公表

JPモルガンが、アメリカで最初の10億ドルの会社、U.S.スチールを創った。プライスウォーターハウスが最初の監査人に指名された。

1904 はじめての会計士世界会議

米国セントルイスで、米国、英国、スコットランド、オランダ、カナダが参加してはじめての会計士世界会議が開催された。

1909 社債の格付け(社債はこれ以前に存在)

米ムーディーズ・インベスターズ・サービスが米国の鉄道会社250社が発行した社債をアルファベットを用いて格付けした本を出版した。

1909 社債および公債の格付け

米スタンダード・アンド・プアーズが社債および公債の格付けを開始。

20世紀前半 西の新大陸へ、海を渡った移民と投資マネー

投資先の財務状況が手に入らない投資家に情報提供すれば儲かるという一儲けを企んだ会計士

鉄道会社ブームのあと放漫経営で潰れる会社も多くあり

当時の会計士の仕事は破産処理をする処理人として誕生(会計士がいれば会社危ない?)

会計士のニュービジネスとして監査(会社が死亡しないように会社の健康状態を確認)

監査業務誕生 経営者は資金調達先に対して結果を説明し、会計士が監査で聞く関係

20世紀前半 財務指標が注目される

→流動性分析、収益性分析などの各種の財務諸表が登場

アメリカの鉄道会社の中にはズボラな経営で潰れる会社も出てきた。こうなると「企業の安全性→流動比率」などの財務指標に興味を持つ投資家が現れてきた。

1914 第一次世界大戦 開戦

1918 第一次世界大戦 終戦

1919 動的貸借対照表を出版

期間損益計算の関係から貸借対照表を理解する理論が提起された

http://www2.plala.or.jp/dogcat/shuma-rennbahha.htm

20世紀前半 レーダーの開発

電波を送信して航空機に反射させ、その反響を捉えて位置を測る。ワトソン=ワットの実験は見事に成功し、この技術がレーダーになった。

1919 デュポン方式を発案した会社「デュポン」

→各事業がどれだけ設ければいいのか?の目標とそのために何をすべきかの方法を示した。

利益が黒字ならOK、赤字はNG、経営者なら誰でも知っている。ではどれだけの利益を出せばよいのかはどうだろうか。意外にそんなの知らないという経営者が多いのかもしれない。

多くの場合、便宜的に「対年度比」を使っている場合が多い。しかし、前年と比較するだけで良いのだろうか。前年はすごく良いかもしれないし、すごく悪かもしれない。

そこで、デュポン公式「利益は会社の規模に見合った分が必要だ」と考える。図体が小さい会社は儲けが少なくても良いが、大きい場合はたくさん儲けなくてはならない。

「資本利益率」:ROI = 利益率(利益/売上)×回転率(売上/資本)

会計原則・財務諸表とは我々の歴史が、人類が生み出したものなのだ

それだけで驚きを持って享受することができないだろうか

それは最初からあったわけではないのだ。本質を見ようとしないと見ることはできない。会計原則は動的なのだ。

1920 デュポン 世界初「事業部制組織」を採用

事業別にR(事業)とI(資産)を計算できるようになったことで、分業化が進めることができた。

1920 管理会計(Managerial Accounting)の始まり

シカゴ大学の会計学教授マッキンゼー氏が大学に管理会計という名の講座をスタートさせた。

経理担当者向けの予算管理を教えていた。これまでの会計は基本的に後追いの世界、過去の取引をデータ化して整理し、決算書を作る。これに対して、マッキンゼーの予算は未来志向、計画重視だった。後追いの結果論ではなく、「かくありたい」計画。まずは予算計画を作り、それと実績を比較することによって現場の管理を行う。当時は第一次大戦後の好況期にあったとはいえ、公共と不況が交互にやってくるブレの激しい世の中、予め数字計画を作る予算は経営者に支持された。従来の経済学とは異なる「有効需要」を元にした新たな学説、マクロ経済学誕生。(19世紀の企業経営は「規模」を目指し、続く20世紀前半には「効率」を目指す)

守りの会計 = 財務会計

攻めの会計 = 管理会計

1920 ゼネラルエレクトリック

  • 月賦販売の登場

個人向けの家電製品分野で「新たな販売手法」でGEの売上を激増させただけでなく、アメリカ人の消費マインドを変えてしまうほどのインパクトを与えた。家電業界や自動車業界において「たくさんつくる」という技術はすでに完成していた。あとは「売るだけ」。当時家庭には少しずつ家電製品も増えていたとはいえ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などはまだまだ高価でお金持ちしか変えない代物だった。当時の多くの会社は大量の広告宣伝費を使って、製品の知名度を高め、価格をできるだけ安くして売ろうとした「安く・広く」がアメリカンブランドの典型的な売り方。それに加えて月賦販売することを始めた。「借金をおそれない」アメリカン・スピリッツの誕生でもあった。大量消費社会の始まりでもある。そして、株を借金で買うことまでが流行し始め、大恐慌の引き金になった。

  • セグメント化の登場

カーネギーの製鉄、キャンドラーのコカ・コーラ、T型フォードなどこれまで単品販売だったが、GEの家電製品あたりから変化の兆しが表れた。白熱電灯から冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、掃除機と製品ラインナップをどんどん拡大した。製品別に販売部門を分けるセグメント化が行われた。製品別に売上を分けることは簡単でも、コストを分けるのは難しい。この時期からこの課題に取り組まれ始めた。管理会計のセグメント情報は「製品別」から「事業別」などへとどんどん発展していった。

1920 ラジオや蓄音機の登場

1927 日本公認会計士のルーツ

日本における公認会計のルーツ、計理士制度「計理士法」の誕生。当時は、試験を受けずとも大学や専門学校で会計学の単位を取得すれば計理士として認めれていた。

1929 大恐慌が始まる

1930 一般に認められた会計原則の用語

ジョージ・オリバー・メイ(米国会計の父と言われる)を委員長とする米国公認会計士協会(AIA, 現AICPA)の特別員会は、ニューヨーク証券取引所の株式上場委員会と共同作業に着手し財務状況の開示の改善を目指した。AIAの特別委員会は、初めて「一般に認められた会計原則」の用語が使用された。

1934 アメリカ証券取引委員会設立

アメリカ証券取引委員会(SEC)誕生、ジョーが初代長官

2つの改革

  1. 商業銀行と投資銀行の間に一線を引くグラス=スティーガル法

    破綻銀行の多くが預金を株式投資していた反省から、預金と投資の間にファイアーウォールが設けられた

  2. 証券法、証券取引法(会計制度の改革)

    それまで自主性を重んじる姿勢のもとで株主への情報提供は十分とはいえず、また粉飾まがいのインチキ決算も横行。そこで証券取引所で株式を公開している企業には、厳しい財務報告の体制が義務付けられることになった。さらにインサイダー取引や株価操縦の禁止など公正で透明な証券取引ルールが設けられた。2つの法律の新制度の指導・監督を行うべく新設されたのがSECだった。

公開企業の会計制度の根幹3つ

  1. 経営者はルールに基づいて正しく決算書を作成すること
  2. 正しく作成されたかどうかについては監査を受けること
  3. 決算書を投資家に対してディスクローズすること

(決算書の作成、監査のチェック、ディスクロージャー)

プライベートカンパニーとパブリックカンパニーの概念の登場

  1. プライベートカンパニー

    家族・仲間・ストレンジャー株主からの出資と借入だけで資金調達を済ませる

  2. パブリックカンパニー

    公開企業として果たすべき義務が増えるが株式公開液が手に入る

1938 SHM会計原則、米国会計基準の萌芽

アメリカ公認会計士協会の委託を受けたサンダース、ハットフィールド、ムーアの3人の教授によりまとめられた「会計原則に関するステートメント」通称「SHM会計原則」が公表された。体系としては、一般原則、損益計算書原則、貸借対照表原則、連結財務諸表原則の4部から成り立っており、一般原則は、資本と利益との区分の原則、保守主義、財務諸表の形式と用語を取り上げている。第二次世界大戦後の日本の「企業会計原則」に多大な影響を与えた。

1940 取得原価基準、実現基準、費用収益対応の原則

米国会計学会の委託を受けたペイント教授とリトルトン教授は、「企業会計基準序説」を出版し、米国会計会に多大な影響を与えた。取得原価基準、実現基準、そして費用収益太陽の減速などを論理的に提示した。

1939 第二次世界大戦 開戦

1945 第二次世界大戦 終戦

1948 日本証券取引法、公認会計士法

第二次世界大戦後、日本の経済社会の復興と発展のため、「監査と会計に関する職業的専門家」の制度化と「監査のプロ」が社会的に求められるようになった。会計士の資格が制度的に位置づけられるようになった。

1949 日本の「企業会計原則」公表

1950 IBMが電算機開発開始

1953年に会計に電算機の使用が可能になる

1950 日本で会計士誕生

公認会計士法により、1950年に392人の会計士が生れた。

1953 一般に認められた会計原則(US-GAAP)編纂

会計手続委員会(CAP)は、以前に公表した声明書をまとめ成文化した会計調査広報を出した。歴史的原価概念を基礎とした基本的な会計概念が、公認会計士によって開発されて、財務会計の多くの基本的手続きが公認会計士の声明書に基づいていた。(これまでアメリカ公認会計士協会の委託や、芸国会計学会の委託を受けた人が会計原則を作成していた。)

1950年代 コーポレート・ファイナンス、企業価値の概念

将来のキャッシュフローを複数年度にわたって計算する。企業の価値を明らかにする。「会社」を売り買いするのが当たり前の時代、IT・情報サービスなどの隠れた資産が多い会社の価値を計算する枠組みを提供した。

  1. 会社買収後の将来キャッシュフローを見積もる
  2. 将来キャッシュフローを現在価値に割引計算する

論理的に企業価値を計算するのがファイナンス

「会計」は過去から現在までの取引をベースにした記録・計算・報告の体型。

「ファイナンス」は未来の数字を扱っており、その意味で従来の会計とは個別の計算を扱う。

企業価値をあが得るためには将来キャッシュフローを増やすことが必要→そのためには投資の選択。管理の手法、在庫・売掛金・買掛の効率管理などを行わなければならない。ファイナンス各論に含まれる「あるべき論」は会計の枠組みにはなかったこと。

1959 会計原則審議会(APB)設立

1966 アメリカ会計学会(AAA)が「基礎的会計理論」

意思決定有用性アプローチは、情報利用者の意思決定に役立つ会計情報を考えようとしたもの。

1973 国際会計基準委員会(IASC、英国)

1973 財務会計基準審議会(FASB、米国)

1975 ビル・ゲーツとポール・アレンによりマイクロソフト社を設立。

1976 初めて成功したパーソナルコンピュータ

スティーブ・ジョブズがアップルコンピュータを設立、2年後にアップルⅡを公表し、初めて成功したパーソナルコンピュータとなった。

1977 国際会計士連盟(IFAC)設立

国際監査基準や公会計基準を設定している。

1979 電子表計算を公表

アップルⅡ用に表計算ソフト「ビジカルク」を公表。

1979 キャッシュフロー計算書登場

キャッシュフロー計算書が世界的に用いられるようになる。

勘定があって(利益がでるが)銭足らず(キャッシュがない)減少が明快にわかるようになった。

1970年代 国際会計基準IFASの総論の議論開始

→国際会計基準

1986 英国サッチャー首相のもたらしたビック・バン(金融市場革命)

https://cedge.exblog.jp/1484759/

→あとで読む

1989 ベルリンの壁崩壊

→国際会計基準

80年代まで「国際」といえば「インターナショナル」、90年代になると、「グローバル」が用いられるようになる。グローブとは地球のこと。地球は「ひとつ」というのがグローバルの意味。つながりを飛び越えて「ひとつ」になろうとする世界の動きを象徴。

米露冷戦の終結、これによって、軍事利用されていたインターネット技術が民間に公開されてインターネット・バブルが生じた。株式投資の世界でもIT化が進められることになった。

1993年 ドイツのダイムラー・ベンツのニューヨーク証券取引所上場

→すでに世界的な高級自動車ブランドとして有名。資金調達面でのグローバル化を進めるべくニューヨーク証券取引所への上場を決断。証券市場でちょっとした騒ぎ。ドイツでは黒字だった同社が、アメリカ会計基準で決算をやり直したたところ赤字に転落した。同じ年の決算がある国では黒字、ある国では赤字。「国によって会計ルールがちがう」ことは多くの関係者は理解していたが、ダイムラーベンツほどの会社が「ドイツで黒字、アメリカで赤字」の事実は衝撃だった。

この事件があり、会計会でも「一つの会計ルール」を作ろうという空気が高まった。グローバルな投資が行われる時代には、国際的に統一からされた会計ルールが必要だ、そんな声に後押しされ、いよいよ国際会計基準の時代がくる。

「世界で一番のルールは俺だ」自信たっぷりのジャイアン・アメリカに対し、「こちらこそ新時代にふさわしいルールだ」と挑戦を挑むスネ夫・イギリス・U.S.GAAPとIFRSの調整は今もなお続いている。

1993 デロイト・トッシュ・トーマツ会計事務所

デロイト・トッシュ会計事務所に、1973年にトッシュ・ロス会計事務所と合併していた等松・青木監査法人が加わり、デロイト・トッシュ・トーマツ会計事務所となる。

1995年 Windows95

パソコン(パーソナルコンピューター)をインターネットにつないだ。

1996 金融システム革命

「〜2001年東京市場の再生に向けて〜」

優れた金融システムは経済の基礎をなすものであるとの考えのもと大蔵省(現:財務省、金融庁)の主導のもと行われた。

1997年 世界の航空会社がアライアンスを形成

1998 国際会計基準「コア・スタンダード」完成

国際会計基準 第39号「金融商品:認識と測定」の公表で、証券監督者国際機構が求めているコア・スタンダード(核となる基準)が完成した。

1998年 域内統一通貨ユーロが導入

1996年、金融市場の大改革「金融ビックバン」

これにより、情報が誰でも手に入る平等な取引、自由な金融市場によるネット証券参入で便利で安価な取引などが実現された。

https://www.fsa.go.jp/p_mof/big-bang/bb7.htm

1990年代後半 EBITDAの登場

Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation & Amortization

「利息・税金・減価償却費・償却費」控除前で計算した利益

上記の各項目は国によって金額の違いが大きいため。利息や税金は国の経済状態や税法によって金額が大きく異なること、各種償却費もその国のルール次第で金額が異なる

20世紀後半 情報通信の進展

20世紀の後半になるとネットワークでコンピューターと繋ぎ、情報を細かくパケット化して流して、到着先で再構築する技も開発された。このインターネット技術によって私たちは、メール、情報検索、金融取引までをネットワーク上で行えるようになった。鉄道から工業化と情報化の2つの流れが登場したことがわかる。ひとつが蒸気機関車から自動車、航空機へと広がった乗り物の工業化、もう一つが、駅間の交信からはじまって無線、インターネットへ広がった情報化です。20世紀後半、ヒトとモノは短時間で移動できるようになり、カネと除法は距離を超えて瞬時に決済・通信できるようになった。こうして私たちはとうとう「グローバル」という名の新世界へと到着した。

2000 国際会計基準の普及目標設定

欧州委員会は2005年までに国際会計基準を行きないのすべての上場会社に適用する方針を公表

2000 会計ビックバン

日本の証券取引法の財務諸表を「連結財務諸表」を中心とする制度に変更

21世紀(2000 - 2099)

2001 エンロン事件

アーサー・アンダーセン会計事務所が監査していたエンロンが会社破産法申請

大粉飾事件。同様の粉飾が他社でも見られたことから、当時のブッシュ政権を揺るがす事態になった。企業改革法を求める声が強まり、内部統制法(SOX:サーベンス・オクスレー法)が成立した。

2002 アーサー・アンダーセン会計事務所が有罪

司法妨害で有罪になる。SECに監査の資格を自主的に返還し消滅した。

2002 米国財務会計基準審議会(FASB)と国際会計審議会(IASB)基準収斂で合意

2005 欧州連合25カ国すべての上場会社7000社が国際会計基準(IFRS)適用で情報開示

2005 国際会計基準(IAS/IFRS)に収斂させることでEUと合意

米国SECは少なくとも2009年までに欧州連合の企業に「米国基準との差異調整表」を解消すべく国際会計基準に修練させることでEUと合意

2006 中国 国際会計基準に類似した新たな会計基準を上場企業に適用

2011 カナダ自国会計基準を放棄して国際会計基準に適用

今の社会、株式会社の恩恵がかなり大きいことを実感する

自分は今この時代に生きている

2019/07/22

この長い歴史を知って、自分は先人が蓄積した知恵を知ることができる

歴史を知って、会計の各概念が、いつ頃できたかということを立体的に見ることができるようになっている

引当金、償却費、これらの概念の目的もより正確に理解できるようになった。鉄道が生まれてから収益や費用を平準化することから生まれたのだ、発生主義の考え方等。基本的な知識があることでその知識内で概念をプロットして考えることができるようになる。そして、これまで断片的な概念だったが、歴史の上で何かしらの理由で生じた概念であることが想像できるようになり、一つの束として一つの概念を見ることができる。例えば、税効果会計の概念。これまで何故あるのか想像できなかった。今は、税法というのが会計とは違う成り立ちがあるからこの概念が城下ということが想像できる。そして、そこには、過去の人のいろいろな思惑を読み取る事ができる。(おそらくこれが生物学と違う面白さ、人が作ったもの。生物学とは科学。)

2019/07/23

生命とはなんなのか。会社とはなんなのか。

自分が関与していることを十分に理解せずに生きている人がどれだけいるのだろうか。

システム開発、それらの仕様などそれほど難しくないだろう。

4 - 19世紀イギリス|利益革命|

  • 石炭の活用から世界トップへ躍り出たイギリス

    ロンドンの大火石を用いた建造物、その背景には大火の他に木材不足イギリス各地で単行が発見され、炭鉱夫を悩ませる問題、湧き出る地下水馬を使って水を汲み出していたが、効率が悪いそこで開発されたのが蒸気機関ジェームズ・ワットが蒸気機関車へ発展

  • 蒸気機関車の始まりと固定資産

    蒸気機関車の幕開けから鉄道事故蒸気機関の可能性に軍関係者からも強い関心蒸気機関車の致命的な問題→開業までの初期投資があまりにもデカイこと鉄道を開業するにはどれだけ固定資産が必要なのかについて予算を含む事業計画が必要

  • 画家も株主も興奮した鉄道狂時代

    19世紀初め、写真の登場。詳細描画よりも、あえて大胆なタッチで躍動感を表現する画家ターナーが1844年に書いたリバプール・マンチェスター野江に表現されている躍動感と興奮は機関車だけでなく、そこに投資する人々の間にも広がっていた熱狂する株式会社の中、鉄道会社は株主の期待に答えなければならない。それは儲けを毎年増やし、株主に配当を出すこと。しかし、儲けを出すことはそれほど簡単ではない。そこで、鉄道会社自身が新しいルール「減価償却」という概念を作った

  • 19世紀の鉄道時代から始まった「利益」

    蒸気機関車をつくるのにかかる巨額の支出は全額「支出した期」に負担させるのではなく、それから数年かけて費用として負担、平準化させた。減価償却らしい手続きはそれまでも行われていたが、理論付けした上でこれを正式に採用したのは鉄道会社が始めてだった。減価償却はイタリアでの簿記の誕生に匹敵するかもしれない。会計上の儲けは収支から離れ、利益という形で計算されるようになったのだ。安定的に配当できる方法を模索減価償却、利益という概念の登場黒字倒産

5 - 20世紀アメリカ|投資家革命|

  • 西の新大陸へ、海を渡った移民と投資マネー

    →アイルランドのジャガイモ飢餓→アメリカ大陸への大量の移民→産業革命または鉄道株で一儲けした金持ちの投資マネー、アメリカに→投資先の財務状況が手に入らない→投資形に情報提供すれば儲かるという一儲けを企んだ会計士→鉄道会社ブームのあと放漫経営で潰れる会社も多くあり→当時の会計士の仕事は破産処理をする処理人として誕生(会計士がいれば会社危ない?)→会計士のニュービジネスとして監査(会社が死亡しないように会社の健康状態を確認)→監査業務誕生 経営者は資金調達先に対して結果を説明し、会計士が監査で聞く関係

  • 崩壊前夜、ニューヨークラブソディ

    19世紀後半には「経営分析」ブームが起こっていた。「安全性分析(流動性分析)」に関心が集まっていた。決算書の比率分析は20世紀になりますます流行し、様々な財務比率が登場した。ただ、ひりつぶんせきから 経営状態を見抜くことは難しかったよう。なぜなら、もともと決算書が正しく作成されていなかったケースが多くあったから。アイリッシュ移民3世のジョーはハーバードで経営分析、信用評価などを学び、インサイダー取引などで大儲けした。第一次世界大戦の勝利もあり、1920年代のアメリカの経済は絶好調

  • 大悪党ジョー、まさかのSEC初代長官に就任

    1929年10月24日、大恐慌が始まる株価の暴落の原因について考える必要があったのと、この難局を切り抜けるのに相応しいリーダーについてお考える必要があった。すぐそこに大統領選挙が迫っていたから→従来の経済学とは異なる「有効需要」を元にした新たな学説、マクロ経済学誕生→アメリカ証券取引委員会(SEC)誕生、ジョーが初代長官→投資家保護のためのディスクロージャー制度 (決算書の作成、監査のチェック、ディスクロージャー)

  • パブリックとプライベートの大きな分かれ目

    →株主と債権者のための報告書→株主と債権者と投資家のための報告書→内部統制→国際会計基準→EBITDA

6 - 21世紀グローバル|国際革命|

  • 自動車にのめり込んだ機関車運転しの息子
  • 開運とITで覇権を握ったイギリスのグローバル
  • 金融資本市場のグローバル化と国際会計基準
  • 増えるM&Aとキャッシュフロー計算書

7 - 19世紀アメリカ|標準革命|

  • 南北戦争から大陸横断鉄道へ
  • ライバルを潰しながら巨大化する企業
  • 南部から北部へ旅立つコカ・コーラとジャズ

8 - 20世紀アメリカ|管理革命|

  • シカコからはじまったジャズと管理会計の100ネン
  • 分けることでわかる「管区」由来のセグメント
  • フランス系・デュポンの起こした管理会計革命
  • クロスオーバーが始まった音楽と会計

9 - 21世紀アメリカ|価値革命|

  • マイケル・ジャクソンに学ぶ価値(バリュー)思考

    ポール・マッカートニー(ビートルズ)の権利の売買投資のコストとリターン、リターンを重視する新しい分野(企業価値)の起点

  • 企業価値とは何か?

    資産を金額評価するには原価と時価の2つの考え方がある資産評価には古くから、取得原価評価が原則とされてきた。その背景は明快である。それは会計はもともと「お金の動き」を記録するものだったから。金勘定が大切なので、買った気にいくら支払ったかという事実に着目する。しかし、企業が長期的に活動するようになると原価評価にも問題が目立ってくる。シアンが長期に保有されると、原価による評価はときに現実離れした金額になる。時価=リターン重視の声が高まったのは投資家の存在感が増し、ビートルズが活躍した1960年代のこと。産業シフトによって隠れた資産が増加。工業化社会から情報化社会への産業シフトがじわじわと進み始めていた。会社の適正価格、資産の価値は将来に「期待できるリターン」。将来のキャッシュフローの予想から計算される。コーポレート・ファイナンスと呼ばれる新領域として誕生した。財務会計・管理会計といった「Accounting」から抜け出し、コーポレート・ファイナンスが別領域として形成した。

映像の世紀プレミアム 第15集「東京 夢と幻想の1964年」

世界一速い新幹線。東洋一の巨大ホテル。未来あふれる首都高速。破壊と創造だった。一兆円プロジェクト、国家予算の三分の一だった。江戸の名残が消えた。過去と未来、2つの時代がぶつかりあった時代、東京。最も希望に満ちていた時代。

  • 1964年10月10日:東京オリンピック開会式。敗戦から19年。7万5千という大観衆を観ながら、20年になろうとするあの頃の頃を思い出さざるを得なかった。東京、大阪、横浜。「消沈した敗戦後の日本と、オリンピックを開催する日本が同じ民族の姿とは思えないのだ。」

1964年1月

国立競技場が完成していた。正月街では、坂本九の明日があるさ「いつもの駅でいつも逢う...」が流行っていた。SEIKOの時計はスイス以外の時計で初めて採用になる。YS-11の実用化に成功した。聖火の輸送を担う。

  • 1964年1月10日:東京都知事、首都美化デー。東京は大掃除で始まった。200万人が参加したと報じられた。自衛隊まで非常招集された。当時の東京は世界でも指折りの汚れた街だった。川や道にゴミを捨てていた。公衆便所はまるでゴミ箱。日本人の一番悪い癖と言われていた。官民一体となって美化運動が行われた。
  • 1959年5月:ミュンヘンIOC総会、ウィーン、ブリュッセル、デトロイトが名を上げた。招致活動の中心は田畑政治、戦前のロサンゼルス大会で12個のメダルを獲得、ヘルシンキ大会では選手団の団長を務めた。過半数を獲得し、東京オリンピックが確定した。
  • 当時の東京はオリンピックにふさわしい街ではなかった。世界最悪と言われた交通渋滞。問題の解決に与えられた時間は僅か5年。東京大改造が始まった。

1964年2月

オリンピックの特集番組。東京オリンピックまで252日。東京オリンピックモード。背伸びしてみるみたい。都民の関心はオリンピックそのものよりもオリンピックのためのインフラ工事だった。戦後、長期的な都市計画がないままに巨大化した東京。特に深刻だったのが、交通だった。自動車の平均時速が20km、ラッシュアワーには、時速2km。オリンピックまでに作らなければならない都市高速は30km。しかし、東京は不可能に挑んだ。民有地はできるだけ避け、今ある道の上に作るようにした。川も用地買収が不要。そこを選んだ。

それと引き換えに、水の都と言われた東京の景色は失われた。日本橋も例外にはならなかった。高速道路の他にも環状7号線が作られた。東京に新たな景色が広がった。98億円を掛けて生まれ変わった。作家 野坂昭如「港区青山南町は全て失われた。東京の街は面目を一新した。街角の佇まいや見覚えのある看板にいちいち胸ふたがれうなだれてそそくさと立ち去って当然のところ、我が不真面目の片鱗は跡形もなく消え去っていた。」

1964年3月

米国から衛星中継が行われていた。Ginza、東京のブロードウェイと言われているところの映像。日本の国際的な信用を失いかねない事件が起こった。ライシャワー氏。血清肝炎に感染になり、医療制度の不備があらわになった。肉体の一部を売ることの罪悪感を覚えること持った。生きるためにはこれしかなかった。戦後の貧しさはのこっていた。200mlで550円(現在の価値で3000円)。血を売るのは工事現場で働く日雇い労働者。ライシャワー大使が刺された3月に日雇い労働者の厳しさが書かれた記事があった。記者 開高健「毎日8時から7時頃まで働く。拘束11時間、実働10時間。地下鉄工事が一番安い。暗がりだからサボりやすい。しかし、落盤や崩壊という危険も高まる。」大学の初任給2万円。労災病院について「両耳聞こえず、92万円、片腕ブラブラ79万円、脾臓又は腎臓1個45万円。インドよりは高いかもしれないが、国家が手厚く保護しているデンマークのような国とは違う。」

1964年6月7月

都民1500人に対してオリンピックに対して世論調査を行った。「近頃どんなことに関心を持つか」という質問に対する答えでオリンピックと答えたのは2.2%。水が必要とされていた。史上まれに見る大渇水に襲われていた。原因は気候によるものだけではなかった。終戦時35万だった東京の人口は1000万人を突破。人口の東京集中が加速し、水不足の原因となっていた。7月21日、断水、給水制限に踏み切った。東京砂漠。前代未聞の水危機。疎開でも良いのかしれと思うがそうも行かない。

7月23日:利根川の水を引く工事。昼夜を問わない突貫工事が始まった。

1964年8月9月

オリンピックまで2ヶ月。ベトナム トンキン湾事件。アメリカ軍と北ベトナム軍が軍事衝突。この事件をきっかけに米国はベトナム戦争へ本格的に介入した。

江東区、夢の島。夏の暑さに耐えきれず5000平方キロメートルが焼き尽くされた。8月7日自衛隊が出動。断水地区へ水が運ばれた。戦場さながらの雰囲気に包まれた。都民は一斉に井戸を掘り始めた。航空自衛隊が人工的に雨を降らせる取り組みをさせた。ダムの貯水量が1%程度になった。都民は追い詰められた。オリンピックどころではなかった。8月20日 予報にはなかった雨。東京砂漠と言われた水飢饉は解消された。ギリシャで聖火が灯された。聖火リレーは、オリンピック最大の規模で行われた。アジア各地で立ち寄り聖火リレーが行われた。トルコイスタンブール。ヨーロッパが終わりアジアが始まる場所。イランやパキスタンを経て、ヤンゴンを経由した。ラングーン。日本軍が戦場とした場所を敢えて通るルートにしていた。田畑政治。かつての戦場で行ったのは、日本が平和国家に生まれ変わったことを示すとともに、アジア初のオリンピックに参加してほしいと考えたからである。「アジア全体のオリンピックであって、東京はその場所である。東京開催の重要な役割を担ってもらった。」9月7日本土復帰前の沖縄に入った。アメリカの統治下では、自由に国旗を掲げることは禁止されていたが、黙認されて得いたのだ。激しい地上戦で4人に1人が犠牲になった沖縄。9月9日、鹿児島空港に到着。日を4つに分けて日本中を回った。6755km 走ったランナーは10万人に渡った。日本列島はオリンピック一色になった。最後のランナー、19歳の若者、坂井義則。原爆が投下されたその日に広島で生まれていた。「坂井くんが最終ランナーであることが、米国に悪感情を抱かれるという意見もあったが、我々が憎むのは原爆そのものである。」

自分は残りどれぐらい生きることができるのだろうか。
どういうことを自分の生きた証として残したいのか。当時、活躍していた人は、すでにこの世からいない人もいる。人生とはそれぐらいの短さ。

1964年10月

日本選手団の結団式。プレスセンターも店開き。世界各地からオリンピック代表団もやってきた。10月1日、東海道新幹線開業。開幕の9日前。世界一の早さと安全性を兼ね備えた新幹線。鉄道技術研究所。終戦とともに職を失った陸海軍の技術者が働いていた。零戦の開発に携わったものもいた。高速運転で発生する振動を吸収する、ATC(自動列車制御装置)も開発された。陸軍の通信技術者が開発に至った。空気抵抗を抑える形状の丸い形の先頭車両。海軍で飛行機の機体設計を担っていた。特攻機「桜花」「本気を使用することは愚の愚である。技術は本来的に人間を幸せにするものだ。絶対にそうでなければならない。」新幹線には、旧陸海軍の技術者の平和への誓いが込められていた。

34会場が完成した。外国人向けのホテルも次々と開業した。ホテルニューオータニもその一つ。ユニットバス。最先端の後方だった。最上階には、世界最上階の回転ラウンジが設けられた。

  • 10月10日:東京オリンピック開幕。昭和天皇が登場。石川達三「開会式に思う。日本の秋晴れ。」オリンピックに批判的な作家の1人だった。「開会式は金のかかったセレモニー、各国はどれほどの犠牲を払ったものだろう。聖火を運ぶだけでも何万という人たちが苦心を払い、犠牲を払ったはずだ。しかしここに94カ国、6000人が集っている。これが親睦と理解を進めることであるのであれば、なんと安いことだろうか。誠に喜ぶべき犠牲ではないだろうか。」日本選手団の入場。杉本苑子「18歳のときに見た20年前の10月同じ競技場に私はいた、出生していく学徒兵を見送ったのである。天皇皇后がご臨席になった場所には、東条英機首相が経って、敵米英を撲滅せよと学徒兵たちを激励した。暗鬱な雨が多い、地面がぬかるんでいた。今日のオリンピックはあの日に繋がり、あの日も今日につながっている。私にはそれが恐ろしい。私たちに有るのは、今日を今日の美しさのまま明日につなげればならないとする祈りだけだ。」街頭テレビを観る。オリンピックに特に関心があったわけではなかったので、自分には新しい発見だった。競技する人間の肉体による表現力を満喫した。

代々木選手村。クラブや食堂。中南米やアフリカの料理まで用意された。オリンピックの華、マラソン。連覇のかかるエチオピアアベベ・ビキラ。35カ国、42.195kmに挑んだ。120万人の沿道の観衆。

オリンピックはやはり参加することに意義がありますねと友人が言った。

黒い人、黄色い人、白い人。皆勝って欲しい。円谷は銅メダルを獲得した。「全くの抵抗感なしに日の丸の旗が上がるのを見た。円谷君、ありがとう」オリンピックの興奮は最高潮に達した。日本かソビエトが勝つか。金メダルを掛けて戦う。2年前の世界選手権で世界一になった女子。

大松博文(1921年2月12日 - 1978年11月24日)太平洋戦争に従軍したときに染み込んだのだと。「私は太平洋戦争中、多数の日本人翔平が食べるものなく死んでいった。ニューブリテン島のラバウル辺りとか、インパール作戦では、インドのコヒマあたりで過ごしていた。もう死ぬのだと観念し続けたけでした。人はある時期突然に、全く新しい自己を発見することがあります。苦しみもがきギリギリの瀬戸際に立ち尽くした時、突如として訪れる巧妙であります、この意味おいて何事にもあれ、それをなすには、生命をかけることが要求されることがありますまいか。」

松村好子(よしこ)選手:父親がいなかった選手たち。ときには父親的な温かさ、時にはこういう彼氏いたら良いなとか。

戦争で生き残った男とそれを慕う女性たちの戦いが始まった。テレビの視聴率は85%。作家 有吉佐和子「熱戦でしたたり落ちる汗がゆかに落ちると床が滑る。布で汗を拭うのだ。この人達が結婚したらさぞやいい奥さんになるだろうと微笑ましくなりながら応援をしていた。」

選手も非常に苦しかっただろう、自分自身に打ち勝つ生活があってこそ勝てたのだと。引退し婚活。主力選手6人の結婚を取り計らった。「国ごとに選手が入場する予定だったが、バラバラに入場することになった。乱雑さは和やかで美しい。やがて場内の全ての照明は消され、スタジアムを埋める何万かの観客は聖火台に目を向ける。誰もがこれでオリンピックは終わったのだと思う。立ち上がるものはない。各自が納得のゆくまで自分の心を沈めなければならないのだ。」

10月26日:2日後、今後の都政について語った。今日まで続けてきた事業、歪などが有ることも事実である。そういうようなものを是正していく。何か良い目標はないかね。と漏らした。

1964年12月

選手村で使われたものの即売会が開かれ、1万点が1時間ほどで売れた。景気は一気に冷え込んだ。建設ブームがさり、下請けなどの景気が悪化。国民金融公庫、年末が近づくにつれて資金繰りに苦しむ経営者が多く現れた。

年末:人々は現実に戻っていた。開高健、連載の最後「さよなら東京。あちらこちらと東京をほっつき歩いてみたが、知れば知るほどいよいよわからなくなった。勤勉さで働いているかと思うと、朝の9時からパチンコ屋は超満員である。近代式のホテルや競技場が有るかと思うと、マッチ箱のような家がひしめいている。脳の川が乾くくらい水涸れになっても、秋になって台風が来ても雨が降ったら慈雨来たると書き立てて、けろりと忘れてしまう。1人の人間が自己を発見するには、一生かかってもまだ足りないということなのだから。ましてや千万人の都9千万人の国となるといよいよわからなくなるのが当然かも知れない。もししいて答えを見つけようとするのであれば、問い続けることの中にしか答えはないはずであるとでも答えるより仕方あるまい。」

「映像の世紀」デジタルリマスター版 第11集「JAPAN 世界が見た明治・大正・昭和」

明治時代 明治元年-明治44年(1868-1911)

欧米では、日本を題材にした映画がいくつか作られた。ゲイシャガール、日露戦争を太宰として映画明治は文学においても多く有名な作品が残されている。(当時の文章を読むには当時の状況を知っておく必要がある。)日露戦争 明治38年(1904)=>明治39年(1905)ポーツマス条約満州と朝鮮半島の権益がきっかけである。西洋の学問の成果を集め、一世代余りのうちに西洋の文明を取り入れ勝利した日本を西洋諸国は驚くとともに称した。(粘り強さ、起点、知的な対応)また、アジアに民族的な誇りをもたらした。アジアの人々は西洋人以上に熱狂していた。アジア人のアジアという声が沸き起こったのである。白色人種と有色人種との間で戦われた戦争は有色人種が勝った。西洋人は日本による中国の統一を恐れるようになった。韓国併合日露戦争によってロシアから韓国の主導権を獲得し、統監府を置いた。(初代統監:伊藤博文)日本式の教育や韓国軍の解体を行うなど、内政への干渉を強めていた。それに対して反日武装闘争が起こるなど日本に対する不満が増大する。伊藤博文はハルビンで青年に暗殺される。(日本の法律で処刑されるが、のちに独立運動の英雄として称えられる。)伊藤博文の暗殺から一年後、朝鮮半島を支配することになる。(韓国併合(1909)、戦後まで支配が続く。)鉄道、政権、産業開発の技能など多くの分野で影響を与えることになった。

大正時代 大正元年-大正14年(1912-1925)

日露戦争から7年後、五大国の大国として名を連ねるようになった。1915年:パナマ太平洋万博(サンフランシスコ)日本庭園、相撲ロシア革命=>シベリア出兵、7万人に及ぶ兵士を送った。日本の兵士の多さに驚いた。日本軍が共産主義勢力を打ち破ることに各国が期待していた。第一次世界大戦の連合国であるイギリスに訪問した皇太子を評価した。日清戦争以降、台湾を支配していた。当時台湾は多くの民族が暮らしていた。日本語教育が行われ、日本式の農業が教えられていた。関東大震災 大正12年(1923)東京横浜の大部分が廃墟となった。ほとんどがなくなった。世界史的な大事件として各国で報道された。横浜居留地も多く被害を受けた。“このような大地震に対して東京が秩序の正しさを保っていることに驚かされた。規律正しい日本人対して敬意を抱かないわけにはいかない。”明治初め以来移民として、多くの日本人がアメリカに渡った。(カリフォルニア)日本人がアメリカ人の生活を脅かす可能性があるとして移民排斥運動がおこった。異常なほどたくさんの子供を産んでいるとか、差別的な見方も多くあったとされている。質素で勤勉で長時間働く意欲がある。アメリカ大陸に大和民族を繁栄させようとしている民族であるといった見方があった。#

昭和時代終戦まで 昭和元年-昭和20年(1926-1945)

日本の生命線、国際連盟脱退、昭和天皇の即位を祝福するラジオ(朝鮮半島、満州、台湾にも)西洋文明と東洋の文化が入り混じった日本。洋風酒場、カフェは昭和に始まる。“日本は、ハイカラ、カフェなど不思議な世界が広がっている。ちんどん屋などの滑稽な音楽はヨーロッパ人にとっては非常に魅力的である。本当に愉快だからやっているだけなのか、それとも時代の流れゆえにやっているのか。何か悲しみがあるのではないか、西洋のダンスを踊る少女は全く気の毒に思う。彼女らの中には全く異なるリズムが流れているのではないか。性格は朗らかで微笑していながら、その裏には哀愁と深い感傷を抱いている。”犬養毅首相が暗殺される。(大礼服:、明治時代から太平洋戦争の終戦まで使用されていた、日本におけるエンパイア・スタイルの宮廷服(Court dress)。明治初頭に導入され、その後大日本帝国憲法発布に至る立憲君主制確立の過程で整備された、いわゆる「大日本帝国の服制」における最上級の正装である。)日露戦争で主導権を得た大連を満州の玄関口とした。満州に海外投資の半分以上を費やし国運をかけていた。満州国の建国に向けていた。

  • 昭和6年(1931)満州事変勃発:南満州鉄道が爆破されたことを口実に東北部の全域を征服した。大連港:国際連盟が中国に派遣される。日本の軍事行動は自衛のためだとしたが、正当な自衛措置ではないと国際連盟は評価を下した。世界の秩序を乱している、その秩序を乱しているとした。
  • 昭和7年(1932)満州国建国:翌年国際連盟を脱退。日本は孤立化の道を進んでいくことになる。
  • 昭和9年:ベイブルースをはじめとする大リーグが来日し、これ以降プロ野球が始まる。
  • 昭和12年(1937):ヘレンケラー(1880-1968)が来日する。
  • 昭和12年:盧溝橋事件=>日中全面戦争勃発。列強が権益を持つ中国での情勢は世界各国で伝えられる。南京に出兵(1938)南京大虐殺日中戦争が始まって以降、アメリカのニュース映画社は日本を経済的な脅威として描いたものを多く作成し、アメリカは反日感情を露わにしていた。誇張したものが多く描かれている。当時のニュース映画からアメリカが日本に対して不信感を強めていたことを表している。こののち、中国を巡るアメリカと日本の対立は深まり、ついに衝突することになった。
  • 昭和16年12 月8日(1941)ハワイ真珠湾を奇襲攻撃する。日中戦争が長引く中、解決を求めて南方に攻撃を進めそれに対してアメリカが経済制裁を行い、アメリカに攻撃を行うことになった。東条英機=>米英宣戦布告。11万人もの在米日本人を強制退去した。日系人収容所戦争が始まって士気を高めるために様々な映画が作られる。近代的な生活をしているが、家に帰ると中世的な生活をしている。天皇に命を捧げるのだと教えられる。戦いの初期の段階で勝利を治めたものの、後に厳しくなる。大東亜会議を開く。(1943)日本こそ欧米の侵略を抑えた最初の国だった。インドの民衆は独立を祈願している。インドネシアに対しても。“日本の侵略が始まったころ、兄のような親密な態度をとっていた。しかし、新聞に日本軍勝利の文字が少なくなるにつれて、インドネシアに対する風当たりが変わってきた。馬鹿野郎とビンタが飛び出すようになった。”インド独立運動の指導者ガンジー“崇高な希望を持っていたけれども、帝国主義の野望に過ぎない状態なっている。また、アジアを解体する張本人になろうとしている。欧米列強に肩を並べたいという日本人の野望であった。中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって成し遂げられるものではないということは明らかである。あなた方の友ガンジーより”
  • 昭和20年8月(1945)広島・長崎に原子爆弾を投下。ポツダム宣言受諾。第二次世界大戦は終了した。

昭和時代 昭和20年-昭和63年(1945-1988)

  • 昭和20年連合国軍最高司令官マッカーサーが来日。(7年に及ぶ日本占領が始まる。)日本人は占領されることに恥じていたのか、恐れていたのかわからないが、家の中に閉じこもったままだった。
  • 昭和20年9月2日(1945)戦艦ミズーリ上で調印する。
  • 昭和21年(1946)人間宣言(昭和天皇の日本巡航)
  • 昭和21年5月極東国際裁判(東京裁判):“地球の半分以上の人々がこの侵略戦争の殺人行為によって.多大な量の資源を失い、計り知れないほどの血を流した、この世界を巻き込んだ戦渦の責任者を裁判によって罰しないということがあり得ようか?”“戦争は合法的であるからだ。合法的な殺人はいかに残虐であったとして、犯罪ととして責任を問われたことはなかった。広島に原爆を落としたものに対しても責任を負わせなければならない。”
  • 昭和25年(1950)朝鮮戦争勃発。米ソの対立が明瞭に表れた。ロシアからの帰還兵は赤の思想を吹き込まれ共産主義の手先になってかえってきたとアメリカは報じた。極東での共産主義の攻撃に立ち向かわなければならないと報じている。ソ連側のニュースでは、日本をアメリカの軍事拠点にしようとしているとアメリカを非難している。
  • 昭和25年(1950)朝鮮戦争が始まって警察予備隊が設置される。東西冷戦が始まって対日政策を大きく転換した。日本が資本主義の一躍をになうことを願った。アメリカの支援は必要であるが、それぞれの国で重荷を背負う必要がある。日本の安定こそ東アジアの安定にとって不可欠である。共産主義の圏外においておき、巨大の金の力がアメリカのためにフルに活用する必要があると考えた。吉田茂第21回メーデー中立を唱え、ロシアに対しても条約を結ぶべきだとする全面交渉論がわき起こる。対日講和会議が行われる。東西冷戦のさなか、日本との講和会議は国民の注目となり、初の全米向けのテレビ中継となった。日本は48カ国との講和に署名した。講和条約の調印とともに、日米安全保障条約にも調印=>引き続き日本にアメリカ軍が駐留することを認めるものであった。
  • 昭和27年:第23回メーデー(安全保障を巡る激しい論争がおきる。)
  • 昭和28年(1953):テレビ時代の幕開けである。その後の日本の姿はブラウン管を通して世界に伝えられるようになった。明治(開国)=>戦後(アメリカによる支配)=>今深刻な食料不足が起こっていた。皆が、自分がそうであると思うようにする必要はない。自分にとって良いと思いことをすればよいだけの話である。大東亜共栄圏現代の西洋的な物事は明治以降に流入してきたもの。それ以前に入る余地はなかった。
現代社会を理解しようと思えば、まず、明治以降の近代日本を知る必要があると思う。
現在の政治に対しても歴史軸を踏まえてみることができるだろう。自らの頭で考えることができる。
世界は急速に変化している。それを味わえるかどうかは自分が味わおうとするかどうか次第。
自分にとって何が重要で、何を優先すべきであるのか。

よみがえる第二次世界大戦 第3回 「人類の“悪夢”」

ドイツとソビエト

開戦から3年が経った1942年秋ヒトラーの表情に焦りの顔。

1942年11月19日スターリングラードでソビエト軍による反撃作戦が決行される。兵力や戦力の数で、ドイツ軍を圧倒していた。しかし、ヒトラーは撤退や降伏を認めようとせず、あくまでも街の死守を待ち望んでいた。1943年1月31日ソビエト軍がスターリングラードを侵攻し、ソビエト軍の勝利によって、スターリングラードは取り戻される。

戦死者およそ30万、一方、ソビエト軍の戦死者50万人。この戦い以降ドイツ軍の勢いは減衰していった。転換点となる。この頃からヒトラーは健康状態に不安を抱えていたと考えられている。ヒトラーにはパーキンソン病の兆候が現れていた。ヒトラーは戦況が悪化するのと歩調をあわせるように、ユダヤ人に対する迫害をする政策を強めていた。ソビエト地域でのユダヤ人の迫害。この政策は1942年1月ベルリン近郊で行われた会議によって、ユダヤ人迫害が最優先政策であると決められた。全ヨーロッパから650万人のユダヤ人をアウシュビッツに収容する計画だった。

この頃、ソビエト軍はドイツ撃滅のため進軍していた。同じ頃、連合軍によるフランス上陸作戦も計画さていた。

ドイツと連合軍

1944年6月5日ノルマンディー地帯に静かに上陸する。彼らの任務は陸上で敵の後方を攪乱すること。ドイツ軍は不意をつかれることになる。連合軍の計画では32万の将兵を送り込む計画を立てていた。

そのころ、アメリカは第二次世界大戦をきっかけに軍事産業が盛んになり、超大国になった。

フランスでは、ドイツ軍の侵略に抵抗するレジスタンス運動が活発になっていた。それに対して、ナチス軍も殺戮を繰り返していた。1944年8月17日最後にパリを破壊するようにヒトラーに命令されていた。8月25日ルクレール将軍率いる自由フランス軍がパリに到着し、ドイツ軍は降伏。パリは4年ぶりに解放される。

ヒトラーは兵器開発を行い、ドイツ領土内から、イギリスに投下することが出来るミサイル開発を行い、ノルマンディー上陸作戦以降9ヶ月で2万発以上が投下され2万5千人のイギリス人が死傷した。

連合軍はドイツに対して無差別爆撃を加速させていった。このような中、早く戦争を終わらせようとドイツ軍の中でも考えられるようになった。戦争の被害がこれ以上拡大する前にヒトラーを暗殺しようと考えるようになった。しかし、最初の暗殺計画は失敗。

そんな中、米英連合軍がライン川を渡り、ドイツ国内に侵攻しだしていた。一方東部では、ソ連による進軍が進んでいた。

核兵器開発

1939年アメリカは核兵器開発に乗り出す。ナチスドイツの迫害を逃れ、アメリカに亡命した人々が、ナチスドイツが先に核兵器を開発するかもしれないとルーズベルトに伝えた。

ユダヤ系の物理学者が多く参加した。

日本とアメリカ

ノルマンディー上陸作戦が行われた数日後、アメリカは太平洋上でも大艦隊による作戦を結構していた。日本本土を爆撃するための拠点としてサイパンを攻撃する。

1944年6月11日サイパン島を爆撃し日本軍の陣地を壊滅させる。15日上陸作戦を実行。わずか3日で日本軍のほとんどが殺戮され、その後残った日本軍で戦闘するも全滅することになる。その後、アメリカ軍は、フィリピンの奪還を目指した。首都マニラでは、日本軍とアメリカ軍による激しい戦闘が半年間続くことになる。続いて、1945年2月23年硫黄島の戦い。死傷者の数ではアメリカの方が多く、本土決戦をするとなると、どれだけの死傷者が出るか思案するようになった。

<戦後に関しての会談>

この頃になって、戦後のことが話し始められるようになった。

ヤルタ会談:チャーチルとルーズベルト、スターリンによる首脳会談を行う。

米は露に対して、対日戦線に参加するように申しで、樺太千島の譲渡を引き換えにそれに応じた。また、戦後ドイツの分裂統治など戦勝国による世界の分割案が話し合われた。東西冷戦の出発点となる。

ドイツ降伏

ドイツ帝国は崩壊の危機に瀕していた。ソビエト軍がベルリンを包囲していた。1945年4月16日ソビエト軍のよるベルリンの攻撃が開始された。ヒトラーの熱狂的な崇拝者がヒトラーの存在を支えた。4月30日ヒトラーは自殺。ソビエト軍は5月2日ドイツの国会議事堂を占領。ナチス協力者への制裁が行われる。各地の強制収容所は解放される。ドイツが降伏する。

日本降伏

マリアナ諸島からアメリカ軍の戦略爆撃機B29が発進し、日本本土に対して、無差別の攻撃を行った。3月下旬アメリカ軍は沖縄への侵攻作戦を実施、日本軍は神風特攻隊を中心に迎え撃った。4月1日沖縄本島に上陸3ヶ月近く続き、沖縄県民12万人が犠牲となった。その後、二発の原子爆弾を広島と長崎に投下した。8月14日無条件降伏をした

1945年9月2日東京湾にアメリカイギリスソビエトをはじめとする長官がアメリカの戦艦ミズーリに乗って現れる。第2次世界大戦の終焉を示す日本の降伏文書の調印に立ち会うため。6年に渡った第二次世界大戦はここに終結する。民族同士が敵対し、人間が人間に対して牙を向いた。今後このようなことがあってはならないと人類は心から願った。

戦場では彼らの命に重みはなかった。

よみがえる第二次世界大戦 第2回 「日米開戦」

1939年ナチスドイツのポーランド侵攻によって始まった以来6年間、60カ国が参戦し、一般市民を巻き込んだ戦争となった。大量殺戮と破壊の時代となる。

1941年12月8日未明(日本時間)、ハワイ真珠湾攻撃

太平洋海上の空母から攻撃隊が発進する。アメリカ軍の不意をつく奇襲攻撃だった。「とらとらとら、我奇襲に成功せよ。」

真珠湾攻撃までの背景

真珠湾攻撃出撃を前に出陣の杯をかわす。3600人以上の死傷者が出たと考えられている。しかし、空母艦隊は無傷のままで、時代遅れとなった戦艦ばかりの攻撃と今後の戦況に大きく影響する致命的なミスをおかす。翌日フランクリンルーズベルトは日本に宣戦布告する。アメリカはそれまで第二次世界大戦への参戦に反対していたアメリカ国民が主戦論へと変わることになる。

1930年代以降日本軍は中国への侵略をしていた。日本軍は中国の都市を次々と支配下に置いていった。中国での利権を狙うアメリカは、日本軍の勢力拡大を阻止し隊と考えていた。その日本の動きを牽制していたのがフィリピンの米軍基地であった。その後ろにはマレーの天然ゴム、インドネシアなどの石油など日本にとって戦争をするのに必要な物資があった。1940年フランス領インドシナ(現在のベトナム)は日本軍の進駐を受け入れる。東南アジアへの進行を進めていた。

そんな中、アメリカは日本への資源供給を停止させ、金融資産を凍結するなど経済制裁の包囲網をつくり、それによって日本は追い込まれていった。(日本は当時、イギリスフランスと並ぶ強力な海軍を持っていた。)

当時の日本は、天皇への忠誠心を叩き込まれていた。昭和天皇は生物学者でありながら、現人神であった。しかし、軍隊も天皇の下にありながら、実際の権力は軍隊にあった。

攻撃以降

東南アジア

1941年12月8日、真珠湾攻撃と同じ日にイギリスの植民地香港を攻撃、マレー半島にも上陸。イギリスがシンガポール防衛するため派遣していたプリンスオブウェールズを日本軍が沈没させる。これは世界に衝撃をもたらした。真珠湾攻撃の翌日にナチスドイツがアメリカに対して宣戦布告する。ドイツと日本は同盟国であったが、ドイツ軍が助ける必要はなかった。なぜドイツが日本を助けたかは、ソ連に対して戦争協力するだろうという考えがあったのだろうと考えられている。

イギリスはアメリカ軍が味方につくという、待ち望んでもないことになった。しかし、その一方で、わずか18日でイギリス領香港が日本軍の手に落ちた。また1942年イギリス軍の要塞シンガポールも陥落する。10万人のイギリス軍が捕虜となることになり、これはイギリス史上最大の降伏となった。これらの捕虜は建設作業など過重な労働によって、多くがなくなったとされている。次にアメリカ軍駐留するフィリピン侵略をする。ルソン島を占領しアメリカ軍フィリピン軍を捕虜とする。日本軍は、真珠湾攻撃から5ヶ月太平洋連合軍を駆逐し太平洋の半分を占領する。電撃的な勝利を治めていた。

ヨーロッパ

この頃ヨーロッパでは、イギリス軍は反撃の準備を整えていた。大型爆撃機で夜間攻撃を目論んで、1942年3月8日に攻撃をする。モスクワまで30kmの地点まで侵略して多くの西ヨーロッパを支配していた。しかし、ロシアの反撃によって200km後退を余儀なくされる。1942年、日独伊が全ての戦線で優位を占めていた。

アメリカ

日本軍による進行を見たアメリカ人は日本軍の本土上陸を恐れるようになり、西海岸では日系アメリカ人の排斥運動が始まった。それによって、日系人と日本人移民の住居の強制的な立ち退きが命令された。砂漠地帯の強制収容所に治められた。その中で6000人がアメリカに忠誠を誓い通訳などとして太平洋戦線に赴き、2万人がヨーロッパでドイツ軍として働くことになった。V(勝利)のために労働に参加しようと言うのが合い言葉となっていた。

日本

アメリカは日本本土を奇襲爆撃するという作戦を打ち出す。1942年4月18日爆弾を投下した。東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸に空襲を受ける。

日本はそれに対して、ミッドウェイを奇襲攻撃しようとするも、アメリカに暗号を読み取られており、この6月5日の戦いで、アメリカ軍は空母一隻、日本軍は四隻を失うことになり、日本にとって最初の大きな敗北となった。そして、この戦いが、重要な転換点となる。

また、当時日本は南進を続けていた。連合軍の補給基地となっていたオーストラリアも重要な攻撃目標だった。日本軍の攻撃に対して、準備を整え、パプアニューギニアで対戦することになる。偵察中のアメリカ軍が、日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設していることを発見する。これは、同盟国のオーストラリアにとって驚異となるとして、1942年8月アメリカ軍は初めての上陸戦線を挑む。日本軍は無警戒でその日のうちにガダルカナル島を占領し日本人を駆逐する。その後、ガダルカナルは日本の攻撃目標となり、大勢の日本兵が送られることになる。3万人あまりの日本兵が送り込まれる、十分な装備、病気への予防などないまま兵士たちは無謀な戦いを強いられた。戦闘は半年あまり続いた。アメリカ兵は1500人、日本兵は2万人あまりが命を失うことになった。しかし、この戦闘も第二次世界大戦の中では極小さな戦いにすぎなかった。

ドイツとソビエト

モスクワ攻略に失敗し、膠着状態が続くドイツとソビエトの戦い。戦況を一気に打開することにした。兵力を増大。500万人+80万人、イタリア30万人を投じる。しかし、その中で故郷に帰ることが出来たのはわずか1万人だった。ルーマニアやハンガリーなどの同盟国なども出兵した。ドイツは資源を獲得するためコーカサス地方、工業地帯のスターリングラードへの侵攻を始める。猛爆撃によって、戦車の製造工場も瓦礫の山となる。ソビエトにとっても失ってはならない都市をドイツ軍が制圧することになる。しかし、この頃の日本と同様にドイツの快進撃には陰が見え始めていた。

我々はどう生きるのか