映像の世紀プレミアム 第15集「東京 夢と幻想の1964年」

世界一速い新幹線。東洋一の巨大ホテル。未来あふれる首都高速。破壊と創造だった。一兆円プロジェクト、国家予算の三分の一だった。江戸の名残が消えた。過去と未来、2つの時代がぶつかりあった時代、東京。最も希望に満ちていた時代。

  • 1964年10月10日:東京オリンピック開会式。敗戦から19年。7万5千という大観衆を観ながら、20年になろうとするあの頃の頃を思い出さざるを得なかった。東京、大阪、横浜。「消沈した敗戦後の日本と、オリンピックを開催する日本が同じ民族の姿とは思えないのだ。」

1964年1月

国立競技場が完成していた。正月街では、坂本九の明日があるさ「いつもの駅でいつも逢う...」が流行っていた。SEIKOの時計はスイス以外の時計で初めて採用になる。YS-11の実用化に成功した。聖火の輸送を担う。

  • 1964年1月10日:東京都知事、首都美化デー。東京は大掃除で始まった。200万人が参加したと報じられた。自衛隊まで非常招集された。当時の東京は世界でも指折りの汚れた街だった。川や道にゴミを捨てていた。公衆便所はまるでゴミ箱。日本人の一番悪い癖と言われていた。官民一体となって美化運動が行われた。
  • 1959年5月:ミュンヘンIOC総会、ウィーン、ブリュッセル、デトロイトが名を上げた。招致活動の中心は田畑政治、戦前のロサンゼルス大会で12個のメダルを獲得、ヘルシンキ大会では選手団の団長を務めた。過半数を獲得し、東京オリンピックが確定した。
  • 当時の東京はオリンピックにふさわしい街ではなかった。世界最悪と言われた交通渋滞。問題の解決に与えられた時間は僅か5年。東京大改造が始まった。

1964年2月

オリンピックの特集番組。東京オリンピックまで252日。東京オリンピックモード。背伸びしてみるみたい。都民の関心はオリンピックそのものよりもオリンピックのためのインフラ工事だった。戦後、長期的な都市計画がないままに巨大化した東京。特に深刻だったのが、交通だった。自動車の平均時速が20km、ラッシュアワーには、時速2km。オリンピックまでに作らなければならない都市高速は30km。しかし、東京は不可能に挑んだ。民有地はできるだけ避け、今ある道の上に作るようにした。川も用地買収が不要。そこを選んだ。

それと引き換えに、水の都と言われた東京の景色は失われた。日本橋も例外にはならなかった。高速道路の他にも環状7号線が作られた。東京に新たな景色が広がった。98億円を掛けて生まれ変わった。作家 野坂昭如「港区青山南町は全て失われた。東京の街は面目を一新した。街角の佇まいや見覚えのある看板にいちいち胸ふたがれうなだれてそそくさと立ち去って当然のところ、我が不真面目の片鱗は跡形もなく消え去っていた。」

1964年3月

米国から衛星中継が行われていた。Ginza、東京のブロードウェイと言われているところの映像。日本の国際的な信用を失いかねない事件が起こった。ライシャワー氏。血清肝炎に感染になり、医療制度の不備があらわになった。肉体の一部を売ることの罪悪感を覚えること持った。生きるためにはこれしかなかった。戦後の貧しさはのこっていた。200mlで550円(現在の価値で3000円)。血を売るのは工事現場で働く日雇い労働者。ライシャワー大使が刺された3月に日雇い労働者の厳しさが書かれた記事があった。記者 開高健「毎日8時から7時頃まで働く。拘束11時間、実働10時間。地下鉄工事が一番安い。暗がりだからサボりやすい。しかし、落盤や崩壊という危険も高まる。」大学の初任給2万円。労災病院について「両耳聞こえず、92万円、片腕ブラブラ79万円、脾臓又は腎臓1個45万円。インドよりは高いかもしれないが、国家が手厚く保護しているデンマークのような国とは違う。」

1964年6月7月

都民1500人に対してオリンピックに対して世論調査を行った。「近頃どんなことに関心を持つか」という質問に対する答えでオリンピックと答えたのは2.2%。水が必要とされていた。史上まれに見る大渇水に襲われていた。原因は気候によるものだけではなかった。終戦時35万だった東京の人口は1000万人を突破。人口の東京集中が加速し、水不足の原因となっていた。7月21日、断水、給水制限に踏み切った。東京砂漠。前代未聞の水危機。疎開でも良いのかしれと思うがそうも行かない。

7月23日:利根川の水を引く工事。昼夜を問わない突貫工事が始まった。

1964年8月9月

オリンピックまで2ヶ月。ベトナム トンキン湾事件。アメリカ軍と北ベトナム軍が軍事衝突。この事件をきっかけに米国はベトナム戦争へ本格的に介入した。

江東区、夢の島。夏の暑さに耐えきれず5000平方キロメートルが焼き尽くされた。8月7日自衛隊が出動。断水地区へ水が運ばれた。戦場さながらの雰囲気に包まれた。都民は一斉に井戸を掘り始めた。航空自衛隊が人工的に雨を降らせる取り組みをさせた。ダムの貯水量が1%程度になった。都民は追い詰められた。オリンピックどころではなかった。8月20日 予報にはなかった雨。東京砂漠と言われた水飢饉は解消された。ギリシャで聖火が灯された。聖火リレーは、オリンピック最大の規模で行われた。アジア各地で立ち寄り聖火リレーが行われた。トルコイスタンブール。ヨーロッパが終わりアジアが始まる場所。イランやパキスタンを経て、ヤンゴンを経由した。ラングーン。日本軍が戦場とした場所を敢えて通るルートにしていた。田畑政治。かつての戦場で行ったのは、日本が平和国家に生まれ変わったことを示すとともに、アジア初のオリンピックに参加してほしいと考えたからである。「アジア全体のオリンピックであって、東京はその場所である。東京開催の重要な役割を担ってもらった。」9月7日本土復帰前の沖縄に入った。アメリカの統治下では、自由に国旗を掲げることは禁止されていたが、黙認されて得いたのだ。激しい地上戦で4人に1人が犠牲になった沖縄。9月9日、鹿児島空港に到着。日を4つに分けて日本中を回った。6755km 走ったランナーは10万人に渡った。日本列島はオリンピック一色になった。最後のランナー、19歳の若者、坂井義則。原爆が投下されたその日に広島で生まれていた。「坂井くんが最終ランナーであることが、米国に悪感情を抱かれるという意見もあったが、我々が憎むのは原爆そのものである。」

自分は残りどれぐらい生きることができるのだろうか。
どういうことを自分の生きた証として残したいのか。当時、活躍していた人は、すでにこの世からいない人もいる。人生とはそれぐらいの短さ。

1964年10月

日本選手団の結団式。プレスセンターも店開き。世界各地からオリンピック代表団もやってきた。10月1日、東海道新幹線開業。開幕の9日前。世界一の早さと安全性を兼ね備えた新幹線。鉄道技術研究所。終戦とともに職を失った陸海軍の技術者が働いていた。零戦の開発に携わったものもいた。高速運転で発生する振動を吸収する、ATC(自動列車制御装置)も開発された。陸軍の通信技術者が開発に至った。空気抵抗を抑える形状の丸い形の先頭車両。海軍で飛行機の機体設計を担っていた。特攻機「桜花」「本気を使用することは愚の愚である。技術は本来的に人間を幸せにするものだ。絶対にそうでなければならない。」新幹線には、旧陸海軍の技術者の平和への誓いが込められていた。

34会場が完成した。外国人向けのホテルも次々と開業した。ホテルニューオータニもその一つ。ユニットバス。最先端の後方だった。最上階には、世界最上階の回転ラウンジが設けられた。

  • 10月10日:東京オリンピック開幕。昭和天皇が登場。石川達三「開会式に思う。日本の秋晴れ。」オリンピックに批判的な作家の1人だった。「開会式は金のかかったセレモニー、各国はどれほどの犠牲を払ったものだろう。聖火を運ぶだけでも何万という人たちが苦心を払い、犠牲を払ったはずだ。しかしここに94カ国、6000人が集っている。これが親睦と理解を進めることであるのであれば、なんと安いことだろうか。誠に喜ぶべき犠牲ではないだろうか。」日本選手団の入場。杉本苑子「18歳のときに見た20年前の10月同じ競技場に私はいた、出生していく学徒兵を見送ったのである。天皇皇后がご臨席になった場所には、東条英機首相が経って、敵米英を撲滅せよと学徒兵たちを激励した。暗鬱な雨が多い、地面がぬかるんでいた。今日のオリンピックはあの日に繋がり、あの日も今日につながっている。私にはそれが恐ろしい。私たちに有るのは、今日を今日の美しさのまま明日につなげればならないとする祈りだけだ。」街頭テレビを観る。オリンピックに特に関心があったわけではなかったので、自分には新しい発見だった。競技する人間の肉体による表現力を満喫した。

代々木選手村。クラブや食堂。中南米やアフリカの料理まで用意された。オリンピックの華、マラソン。連覇のかかるエチオピアアベベ・ビキラ。35カ国、42.195kmに挑んだ。120万人の沿道の観衆。

オリンピックはやはり参加することに意義がありますねと友人が言った。

黒い人、黄色い人、白い人。皆勝って欲しい。円谷は銅メダルを獲得した。「全くの抵抗感なしに日の丸の旗が上がるのを見た。円谷君、ありがとう」オリンピックの興奮は最高潮に達した。日本かソビエトが勝つか。金メダルを掛けて戦う。2年前の世界選手権で世界一になった女子。

大松博文(1921年2月12日 - 1978年11月24日)太平洋戦争に従軍したときに染み込んだのだと。「私は太平洋戦争中、多数の日本人翔平が食べるものなく死んでいった。ニューブリテン島のラバウル辺りとか、インパール作戦では、インドのコヒマあたりで過ごしていた。もう死ぬのだと観念し続けたけでした。人はある時期突然に、全く新しい自己を発見することがあります。苦しみもがきギリギリの瀬戸際に立ち尽くした時、突如として訪れる巧妙であります、この意味おいて何事にもあれ、それをなすには、生命をかけることが要求されることがありますまいか。」

松村好子(よしこ)選手:父親がいなかった選手たち。ときには父親的な温かさ、時にはこういう彼氏いたら良いなとか。

戦争で生き残った男とそれを慕う女性たちの戦いが始まった。テレビの視聴率は85%。作家 有吉佐和子「熱戦でしたたり落ちる汗がゆかに落ちると床が滑る。布で汗を拭うのだ。この人達が結婚したらさぞやいい奥さんになるだろうと微笑ましくなりながら応援をしていた。」

選手も非常に苦しかっただろう、自分自身に打ち勝つ生活があってこそ勝てたのだと。引退し婚活。主力選手6人の結婚を取り計らった。「国ごとに選手が入場する予定だったが、バラバラに入場することになった。乱雑さは和やかで美しい。やがて場内の全ての照明は消され、スタジアムを埋める何万かの観客は聖火台に目を向ける。誰もがこれでオリンピックは終わったのだと思う。立ち上がるものはない。各自が納得のゆくまで自分の心を沈めなければならないのだ。」

10月26日:2日後、今後の都政について語った。今日まで続けてきた事業、歪などが有ることも事実である。そういうようなものを是正していく。何か良い目標はないかね。と漏らした。

1964年12月

選手村で使われたものの即売会が開かれ、1万点が1時間ほどで売れた。景気は一気に冷え込んだ。建設ブームがさり、下請けなどの景気が悪化。国民金融公庫、年末が近づくにつれて資金繰りに苦しむ経営者が多く現れた。

年末:人々は現実に戻っていた。開高健、連載の最後「さよなら東京。あちらこちらと東京をほっつき歩いてみたが、知れば知るほどいよいよわからなくなった。勤勉さで働いているかと思うと、朝の9時からパチンコ屋は超満員である。近代式のホテルや競技場が有るかと思うと、マッチ箱のような家がひしめいている。脳の川が乾くくらい水涸れになっても、秋になって台風が来ても雨が降ったら慈雨来たると書き立てて、けろりと忘れてしまう。1人の人間が自己を発見するには、一生かかってもまだ足りないということなのだから。ましてや千万人の都9千万人の国となるといよいよわからなくなるのが当然かも知れない。もししいて答えを見つけようとするのであれば、問い続けることの中にしか答えはないはずであるとでも答えるより仕方あるまい。」